改めて考える自転車ロードレースの未来
日本国内では、東京五輪を前にして、スポーツ全体の機運醸成の取り組みが活発化しています。
そんな中、スタジアムスポーツである「野球・サッカー・ラグビー、etc」、アリーナスポーツである「バスケット・卓球・バレーボール、etc」などでは、プロ化を目指す動き、もしくはすでにプロリーグとしての長い歴史のあるスポーツについては更なる発展(高度なマネタイズ化など)を模索する動きが続いています。
また、最近では企業の経営層がスポーツ界に参入してきており、スポーツをビジネスツールとして捉え、各スポーツ間をボーダレスに渡り歩いて、それぞれのスポーツが持つ価値と可能性を最大化する取り組みなども目立ってきています。
スポーツビジネスに関する書籍や対談などに触れる機会も増えてきており、そういった情報に積極的に耳を傾けてみると、自転車ロードレースが置かれている状況というものを冷静に知ることができたりもします。
我々自転車ロードレース界の人間からすると、多くのスタジアムスポーツやアリーナスポーツというのは、まず「ボール」という共通のツール(大きさがや形が違うだけ)があり、それに対してフィールドの大きさや形、プレイヤーの人数、そして競技ルールが違うだけで、基本構造はどのスポーツも「観客席を備えていてそこから全てが観戦できる」という点でほぼ一緒にみえます。
要するに、スタジアムやアリーナなどで開催されるスポーツというのは、観客がそのスポーツを観戦する(お金を払って観戦する)ことが前提のつくりとなっており、自転車ロードレースにはその重要な部分が抜け落ちてしまっているわけです(クリテリウムなどの観戦型レースが多くなると「こんなの本物のレースではない!」「クリテリウムばっかり走っていたら強くなれない!」といった苦情がチームや選手から噴出します…)。
ゲームやレースを開催するためには、それがプロであろうがアマチュアであろうが、マンパワーを含めた一定のリソースが必要となります。
通常、そのリソースを確保するために資金が必要となるわけですが、自転車ロードレースには観客から直接集金するシステム(概念)がないことから、放映権料やスポンサー料(放映権料と相関関係にある)に頼る必要がでてくるわけです。
しかし、放映権料(スポンサー料)というのは、優先順位的にまずはバリューの高いスポーツ(コンテンツ)に割り当てられていくわけで、多くのスポーツがいろいろな知恵を絞ってこれらを奪い合っている現状を考えると、当たり前ですが放映権料を獲得することは決して簡単なことではありません。
更に、自転車ロードレースというスポーツは、「ボランティアが支える」という基本構造を持っています。
それは、世界最高峰の自転車ロードレースである「ツール・ド・フランス」ですら、審判はみなアマチュアであることからもよくわかります(これはツール・ド・フランスの主催者であるASOのルールではなくて競技主管であるUCIのルール)。
トップ選手の年収は契約金その他副収入を合わせて10億円に達しているのに、形式上はプロの審判がひとりもいないというのはかなりの矛盾に感じます。
要するにこの競技を取り巻く人たちの「可処分時間」を当てにした構造となっており、極端な話し、審判団の可処分時間がなくなってしまった場合、「ツール・ド・フランス」開催を断念せざるを得ない状況もゼロではないわけです。
私自身、かれこれ15年以上、国内での自転車ロードレースの発展を考え続け、外部のひとたちを含めていろいろ方々と議論を交わしてきました。
もちろん、15年前と比べれば、まるで別世界と言っていいほど自転車ロードレースを取り巻く環境は好転していますが、しかし、ここから更に先へ進むために必要な「基本的な問題の改善」は何も進んでいません…。
言い換えれば、現在の基本構造に於ける改善はすでに限界に近づいているともいえます。
求められているのは構造改革であり、既存の常識を覆すような発想の転換というものが必要となってくるのは間違いありません。
いまあるものを止めずに壊さずに大きな構造改革を進めることは容易ではありません。
最近は壊れたおもちゃの様に同じ場所を何周もまわっている自分がもどかしいですが、山は登れば登るほど険しくなるものなので、柔軟性と自分への厳しさを持って前進を続けていきたいと思います。