ナショナリズムと地域愛
連日「平昌五輪」が盛り上がってます(五輪報道自体はかつての様に盛り上がってない様な気もしますが…)。
五輪の基本概念の一つに「ナショナリズム」が挙げられます。
日本として「金メダル◯個、銀メダル◯個、銅メダル◯個」と、メダルの総数をメディアが報道するのはお馴染みの光景であり、「国対国」の祭典であるのは意識せずともひしひしと伝わってきます。
同じく世界屈指の巨大なスポーツイベントである「サッカーワールドカップ」もナショナリズムが凝縮された大会であるのは誰しもが認めているところです。
ちなみに「ナショナリズム」というのを「愛」というカテゴリーのなかで分類してみると、きっと「無償の愛(厚い愛)」に分類されるのだと思います。
一方、「ツール・ド・フランス」を頂点とする自転車ロードレースというスポーツは、基本的に「プロチーム同士の戦い」になります。
もちろん、「世界選手権ロードレース」や「五輪ロードレース」の様に国対抗のレースもありますが、自転車ロードレースの世界ではバリューの高いレースは「プロレース」というのが基本路線となっています。
ですから、日本人が「ツール・ド・フランス」などを観戦する場合、もちろん日本人選手が出場している場合はその選手を精一杯応援するものの、それを除くと「ぼくは◯◯チームの△△選手を応援する」、「わたしは△△チームの◯◯選手が好き」といった具合に、自国以外の選手やチームを応援するパターンも存在することになります。
これらを先の様に敢えて「愛」というカテゴリーに分類するならば、「見た目が好き」や「性格が好き」などが応援する理由になっていたりもするので、恐らく「恋愛(薄い愛)」に分類される気がします。
もちろん、今後、日本籍のプロチームに所属した日本人選手が「ツール・ド・フランス」で総合優勝を狙える日が来たならば、その時は間違いなく大きな「ナショナリズム」が生み出されるのでしょうが、それでも基本的には「多国籍の選手が所属するプロチーム同士の戦い」であることには変わりありません。
こういったことを考えていくと、今後、自転車ロードレースがもっと大きな価値を生み出したいのならば、どこかのタイミングで積極的な「ナショナリズム=地域愛」の刺激を模索していく必要がある様に感じます。
もし、「サッカーワールドカップ」の様に、「ツール・ド・フランス」のみが頂点の大会として「国対抗戦」になったとしたら、今とは違った需要が生まれるのは間違いありません。
もちろん、弊害もそれなりにあるでしょうが、一度、「国別対抗ツール・ド・フランス」を見てみたい気もします。